工藤壮人選手の訃報に触れて

工藤壮人選手の訃報に触れて

2022/10/22

 筆者がエルゴラッソで柏レイソルを担当したのは2013シーズンのわずか1年。そのシーズンは工藤壮人選手にとって、キャリアの中でも激動のシーズンの一つに数えられるでしょう。
 一人の人間としても、サッカー選手としても敬愛する北嶋秀朗選手(大宮アルディージャヘッドコーチ)が背負った柏の9番を直訴して受け継ぎ、その責任を果たすように同年のナビスコカップファイナルでは決勝ゴールを奪取。大会MVPを獲得するとともに、チームのタイトル奪取に貢献し、ナビスコカップ決勝後に発した「レイソルの9番はこうでなければいけないと証明できたと思う」とのコメントが非常に印象に残っています。また同年のリーグ戦ではキャリアハイの19ゴールを記録。自身は初の日本代表にも選出されました。さらにプライベートでは、同年9月10日(くどーの日)に入籍も果たしています。
 それだけの足跡を残せば、当然コラムの執筆機会も必然的に多く、長いものではナビスコカップの優勝原稿として、工藤選手にフォーカスした2,200文字級の記事を掲載。シーズン終了後に発行されるEGイヤーブックも工藤選手をテーマに据えた記事にしました。

ルヴァンカップ決勝告知用にJR新宿駅構内で掲出されている写真

 そのほかではAFCチャンピオンズリーグの煽り記事としてロングインタビューもしましたし、その際は締め切りが非常にタイトで終了後、即日立台の記者室で文字起こしを実行。通称“即上げ”でエルゴラ編集部に入稿したことが思い出されます。
 工藤選手はどんな時も真摯に取材に応じてくれました。折を見ては、9番に関する質問をしてきましたが、「またか」という表情は一切見せずに、真っ正面から9番を背負うことの意味と向き合い、最高の結果を残してきました。
 また、ピッチ上で工藤選手のすごさを体感したのは、岡山のシティライトスタジアムで行われた天皇杯4回戦・大分トリニータ戦を取材した時のこと。カメラマンも兼任する形だったため、ゲーム中はピッチレベルで撮影をしていると、工藤選手はオフ・ザ・ボールの局面で絶え間なく動き、相手最終ラインとの駆け引きを繰り返していました。“動き出し”をストロングポイントとしていた工藤選手のすごみを、間近で体感した次第です。
 ひとたびピッチを離れれば、大の阪神タイガースファンであることは有名な話。筆者も古くからのタイガースファンだったため、勝手にシンパシーを感じてきました。歴代のユニフォームで背負ってきた選手と背番号は八木裕(3)、桧山進次郎(24)、鳥谷敬(1)と、渋めの人選がズラリ。そうした玄人好みの選手が並ぶあたり、リアルなコアファンである証でしょう。
 柏担当を離れた後の14年だったでしょうか。J3開幕戦のY.S.C.C.横浜×ブラウブリッツ秋田(ニッパツ三ツ沢球技場)の取材に出掛けると、スタジアム1Fのロビーで工藤選手とバッタリ再会。聞けば柏ユース同期である山﨑正登(当時・YS横浜)、島川俊郎(当時・秋田)両選手が出場するため、観戦に訪れたとのこと。神戸での試合翌日に横浜まで来るとは、ずいぶんと同期思いなんだなと勝手に感心しました。“人間・工藤壮人”を垣間見た瞬間です。
 なお、今回の訃報に接し、工藤選手との思い出話が人物像を伝えることにつながり、哀悼の意を表すことになればと、この記事をしたためさせていただきました。
 あらためて、工藤壮人選手のご冥福を心よりお祈りいたします。

2022年10月22日 郡司聡

2013年日立台で練習試合を視察する工藤壮人選手(右)

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